昭和47年1月31日 朝の御理解
                                       入力者 =中村良一

御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しているから長う散らぬ。」
桜の花の信心、梅の花の信心。えー、合楽の信心の、んー、本質的なものとでも言うですかね、金光様のご信心の中にも、やはり、それぞれ、教祖の信心を受けられた方によって、えー、そういう様々な、一つのタイプというものがありましてね、えー、やっぱ、梅の花の方の人、桜の花的な人。または、えー、ここにはありませんけれども、ま、柳のような感じの人と、竹のような感じの人、松のような感じの人と、まあ、それぞれなんです。やはり、ここで私の信心を受けられても、やはり、えー、様々な類型があるようにですね。私は、大体、合楽の信心は、何とはなしにこう、パーッとした桜の花の信心的なものが濃厚だと、私は、実は思うておったんです、今まで。ところが、よーく、考えてみると、そうではないようにも思うしね。今日、私、えー、御神前に出らせて頂いたら、んー、大石内蔵助の、ね。忠臣蔵ですよ。大石内蔵助の、おー、何と言うですかね、あの、おー、あそこは何屋でしたかね、三浦屋、三浦屋じゃなかった、何屋でしたか。一力茶屋ね。一力茶屋の場面を頂くですね。どういう事だろうかと、私は思いよったら、あの、討ち入りのときに使ったという、あの、山鹿流の陣太鼓。大石内蔵助という人は山鹿流を体得した人なんですね。いわば、近くに打って遠くに聞こえ、遠くに打って近くに聞こえるという、その、おー、まあ、いわゆる、戦いのときに使った太鼓なんですね。陣太鼓なんですよ。もう、その、陣太鼓を頂くんですよ。で、まあ私、それから、今日、ここの二十九節を頂いて、もう、それとこれとが、どのような繋がりがあるものだろうかと思うてね、思わせていただいたんですけれども、私は、いかにもね、合楽の信心は、桜の花的に見えて、桜の花の信心に見えて、実は、梅の花の信心だという事です。いわゆる、遠くに聞こえて近くに、遠くで打って近くに聞こえるといったようなものです。いかにもね、合楽の場合は、実に華やかです。ま、私共も、随分、教会あっちこっち廻りました。大きな教会も、なら、この辺に、久留米もあれば、甘木もあります。けれどもね、御大祭などの時に行ってみて、一番感じることは、まあ、合楽の華やかなことと、こう思うですね。ですから、いかにも私の信心は、桜の花のように見えているけれども、しかし、本質的なところはです。そうだ、桜の花のように見えているけれども、実は、梅の花の信心だという。私はその、山鹿流の陣太鼓というのは、そういうような風に感じたんです。ね。いかにも、今までのようにもう、聞いてもらったら、私は大体、性格が、華やかで、えー、パーッとしたことが好きで、えー、のように言うてきた。だから、おかげもなら、、やはり、華やかなおかげが、頂けておるのだと。そこで、欠けておるのは、まあ、言うならば、梅の花の信心が欠けておるのであるから、梅の花と言えば、あー、それこそ、まあ、辛抱強いというかね、えー、ここにもありますように、んー、梅の花は、苦労しているから長う散らんと仰る。その、そういう苦労のない信心のように言うて参りました。また、それが欠けておる。だから、欠けておるそれを、一つ頂かなければならぬ。まあ、これは私の、おー、理想であり、同時に、合楽の信心の、一つの傾向なんですけれども、そういう、ね。どうでも、そういうおかげを頂かなければならんというのが、梅の香りを桜に持たせ、ね。しだれ柳に咲かせたいといったようなですね。そういう全てを、そういう、それは、まあ、空想とというかね、そらまあ、理想で会って、そげなことは出来んと言わずにです。ほんとにそういうおかげが受けられる、そういうおかげを目指しての信心でなからなければならんと、これは、私が、あの持論なんですよね。梅の花の信心、梅の花の信心と言うて、その、まあ、渋いことばっかり言うておるというか、ね。えー、私は、やはり、お互いが願っておる、その願いの、おー、は、やはり、桜の花の咲くような、ぱっとしたおかげを頂きたいというのが、人間の、みんな持っておる願いじゃなかろうかと思います、本当は。ね。そらもう、おかげはないなかにでも、まあー、信心の有難いものを頂いて、おかげはどうでも良いと言う人はなかろうと思うです。やっぱり、大きなおかげを頂きたい。華やかなおかげを頂きたいというのはです、ね。誰でも思っておる願いである。ね。だから、それではね、花が咲いたけれども、散ったという事で、後は淋しい事になる。そこで、その内容としてです。信心辛抱という。いわゆる、梅の花の信心が必要だと。その信心辛抱、さあ、ここがしんぼうぞと言うところは、辛抱しぬかせてもらうという事。ね。
小倉の、おー、初代、桂先生と言う方は、もう、大変な厳しいお方であったらしい。そらもう、信者に対しても、奥様に対してでも、そら大変なその、まあ、いうなら、ワンマン的なですかね。もう、ある意味では強引なというか、桂松平のいう事にそむくかといったような、あーその、ご自身が、もう、確かなものを頂いておられるものですから、ですからもう、言葉遣いなんかでも、お伝記なんかに残っておるのを見ますと、やっぱ、随分、ろくそな言葉を使っておられますですね。お前達がとか、わしがとかと言うような言葉を使っておられます。こらやっぱ、よっぽど自分の信心に自身がなからにゃ言えるこっじゃないですね。だから、まあ、ああいうゴヒレイも頂かれたわけですけれども、そういう意味で、奥さんも、大変な、やっぱりその、おー、難しいご主人にお付になって、苦労なさったらしいです。何回も、その証拠には、いわゆる、帰っておられますですね、御本部へ。大体が、お里が、御本部の、おー、山ひとつ向こうの、おー、さみと言う、なんと言うですかね、漁村、小さいその、浜辺にある村だそうでございます。今、さみ、海水浴場が出来ております、あそこなんです、ね。ですから、二代金光様、四神様の御襲名で、桂松平先生の奥様になられ、九州に下られた。そして、それこそ、桂松平先生と、一心同体という覚悟で見えたでしょうけれどもです。辛抱が出来られなかった。あるときに、帰られて、四神様に、ね。その口をお届けになさった。お名前をみつと、小倉、桂みつと言われなさったですね。桂みつ先生、ね。「おみっつぁん、辛いか」と仰ったそうです。「もう、金光様、辛いの段じゃございません」と。「もう、他の修行なら、どんな修行でも致しますけれども、こればっかりは辛抱が出来ません」と仰った。そしたら、四神様がね、「さあ、その辛抱の出来んところを、辛抱していくのぞ」と仰ったそうですね。さあ、その辛抱の出来んところを辛抱して行くのぞと。表から出されたら、裏から入れ。裏からほたくり出されたら、表から入れと仰ったと。それこそ、泣く泣く帰られて、二代の、いわゆる、小倉を立てられたお方です。それでもやはり、そういう、もう、これだけは辛抱できんという事がおありになったという事。その、ね。もう、他のことなら、どんな辛抱でも致しますけれども、これだけは辛抱が出来ん。さあ、そのできんという辛抱こそが、本当の辛抱じゃと教えられたのでございましょうね。そういう風に頂いてまいりますとですね。私自身、そこをしてきておるという事に気が着いたです、今日は。もう本当に、これだけは辛抱が出来んという事。そら、例を言うなら色々ございました。この肉体の上においてもです。経済問題においてもです。本当に、泣く泣く辛抱しいしいにというところを、私、通らせていただいたなあと思うですね。今日のお知らせを頂いて、ははー、合楽の信心はいかにも、桜の花かに見えておるけれども、実を言うたら、私、梅の花の信心のほうが強いんだなというようなことを、今日は感じました。ね。遠くに打って近くに聞こえ、近くに打って、遠くに聞こえるというようにです。なるほど、ここでは、何とはなしに、えー、地元というよりも、遠方からね。まあ言うなら、あー、佐賀県、ね。熊本県、福岡県は言うに及ばず、久留米、福岡あたり、小倉あたりから、大分、というように、その、ここで、その大祭なんかのとき、自動車のナンバーを見るともう、それこそ遠方の車が沢山来ておるという事。ね。近くに打ってはおるけれども、実は、遠くに聞こえておるという感じが致しますね。その、遠くに聞こえておるのが、今度は、遠くのものが、近くに聞こえるようになったときが、合楽の、私は、まあ、全てというか、合楽の、いわば、いよいよ、力を頂き、おかげを受けるときであろうと思いますね。今、遠くで打っておるのが、近くで聞こえるようになった時、足元で聞こえるようになった時。ね。ですから、私のことを評して、その、みんなが言われるのに、その、あれは誰でしたかね。あの、久留米の佐田さんがお夢の中に頂かれたように、合楽の先生は、ひょうたんなまずのようなもんだと頂かれた事があった。ひょうたんなまずというのは、もう、つかみどころがないち。うっふふふ、ぬらりくらりしてるわけです。こらもう、本当に自分でそうと思うんです。親教会に対してでも、御本部に対してでも、ね。この頃から、例えば、御本部から、あー、ラジオ放送の、おー、依頼を受けた。まあ、受けたかのようにあったが、いよいよになったら断った。といったような調子なんです。まあ、そんなこっじゃないですけれども、もう、とにかく、合楽の大坪という人間な、つかみどころがない。もう、あーた、ここから、あー、十何人の人が、学院に参りましたけれども、まだ、一回も、私は学院に行かんのですからね。校長さんにも会わなければ、先生方にご挨拶に行った事もないです。そら、年に何回か行かねば、しゃっちならないことがあるけれども、私は行かんです。それで、悪口を言う人もありゃ、素晴らしいという、また人もある。素晴らしいという人もあるかとおもや、また、もう、とにかく、まあ、礼儀もわきまえない。ここに、今年でも、こんなに沢山、年賀状が来ておりますけれども、一本も返事を出さんのです。どういうえらい先生から来とっても、私は。何時もは、まあ、参りましたら、まあ、十五枚か、二十枚ぐらいは、あー、久保山さんに頼んで書いてもらいよったけれどおも、丁度、今年は、そのあれがなかったもんですから、とうと、一枚も出さんづくである。実は、出さないというのが、私の本音なんです。こんなものは、なーにもならん事だと思うておるからです。ね。だから、それを手前のところで言うと、まあ、礼儀を知らないという事になりましょうね。けれども、もう、心にもないことを、私はあの、たとえ、十円でも、二十円でも勿体ないことだと思うから出さない。こら、出さないという事が、良いことではありませんけれどもです。まあそういう、ほんなら、それが、出さないからと言うて、なら私が、そのまま保温にしておるかというと、私の心の中には、神様にいちいち、お届けがしてあって、その方が、たとえば、十円でも、二十円でも、ここへ向けて出されたことに対する祈りという事は、もう、強く向こうへお返ししておるつもりですから、そこんところは分からんのです、人には。いわゆる、なるほど、ひょうたんなまずのような男だなと、自分でも思います。いうならば、丁度、大石内蔵助が、一力茶屋で、まだ、遊蕩中というような感じが致します。ね。味方のものですらが、内蔵助の性根が分からんのです。ここに参っておる御信者さんの皆さんだって、親先生ばっかりはもう、どこがほんなこっじゃい、しらごっじゃい分からん。ね。つい、四、五日前に、私が、ここから、あの、お大師様が、あの、足を出してござるというお知らせを頂いて、福岡行きを止めたとこの、そして、私は、昨日は、けろっとしてから、福岡行きをしておりますからね。可笑しいでしょ。もう、言う事と、することが違う、ね。なるほど、その時にはです。なるほど行かなかったが、なるほど、その日は、どうでも私がおらなければできない問題も幾らもあった。参拝者も、私がおらなければ出来ない参拝者が沢山あった。
昨日、永瀬さんところの、おー、結婚式がありました。結婚式が、十二時に終わった。丁度、私共の家内の親戚に当たります結婚式も福岡でございましたから、家内が、どうでも出席しなければならないことになっておった。ね、高橋さん、どうでしょうか、そのー、大変な評判なんですね。その、岩田屋で今、浮世絵展があってます。そらもう、本当に見事です。もう、それこそもう、素晴らしい。ああいうのがみんな海外へ流れてしまっておる。実に惜しいと思いますね。そういうのを、昨日、見物させていただいたんですけれども、えー、どうでも、やっぱり、私を連れて行きたいと。だから、奥様のお供ち言うこっじゃいかんですかち。その、いわゆるその、口実がつかんわけにはいかんのです。そうですな、ほんならいっちょ、奥様のお供で行きますかち。というわけで、愛子と私が、奥様のお供で昨日は、福岡へ、ま、行ったわけでございます。そしてね、私は、今日は許されたという感じがするんですね、行ってから。許されておるという感じがするんです。もう、昨日は日曜で、ごった返しておる、その岩田屋の、おー、あそこは、七階でしょうか、六階でしょうか、で、私と愛子と、あの、文雄さんと、おー、高橋さんを待ち合わせておる間に、こう、ぶらぶらしよりましたら、向こうから、松岡さんたち夫婦がやって来よるんです。はー、あの忙しい、その、松岡さんたちが、今日、ね。そこへ、私が行っておるところへ、ひょろっとやってくる。ははー、今日は許されたと、ね。松という字は、ここで大事にするのですから、はー、今日は松に会うた。桂松平先生なら、桂松平先生の許しも得てきた。お取次ぎを頂いて、今日は許されておるなという実感で、昨日、夕方まで過ごさせていただいたんですけれどね。ですから、例えば、ほんなら、親先生は、出らんとか、行かんとかと言いながら、もう、何日かの後に行っておるというところを見ると、どれがほんなこっじゃい、先生は分からん、口ばっかりのごたる人と言われても仕方のない事でしょうが。ね。そういうところがです。今、丁度、一力茶屋で遊蕩中というような感じなんです。ね。ほんなら、その本心はというたら、やはり、それこそ、本懐を遂げなければ止まんという、一生懸命の思いがあっての事なのです。私は、昨日、参らせていただきまして、あれも頂いた、これも頂かなければ出来ないという、もう、幾らもの、また、これから、その事が、段々、あー、御理解の中にも出てくる事であろうと思いますけれども、ね。そういう意味で、確かに、私の信心は、一力茶屋の場だけを見ると、いかにも桜の花のようであるけれども、さあその、ほんなら、それからと言うて、色にふけっていると言うわけでもなからなければ、酒におぼれているというわけでもないのです。ね。けども、一見、それを見ると、ね。金光様の先生で、あげなこっで良いかというような面があるかと思うと、その内容たるやは、または、ね。それこそ、歯を食いしばっての辛抱のところも、やっぱあるということ。ね。まあ、言うならばです。合楽の信心の、いわば、本質的なものがね、そういうようにして、現在現れてきておる。だからまだ、本当に現れてはいない。近くに打って遠くに聞こえているだけであって、その遠くに打っておるものが、今度は、近くに聞こえて来るようになった時が、合楽の信心の、いわば、本当なものが発揮される時であろうと思いますけれども、ま、皆さんの信心がです。私が、浮付いておるような状態を見て、そこだけをご覧になると、こら大変なことになると思うのです。これは、特に、家族のものにそれを思うんです。私は、大体、皆さんもご承知のように、えー、の方もると思いますように、お食事ならお食事でも、もう、本当に、おつゆ一滴、あの、それこそ、お皿、洗いゆすいでいただきたい。まあ、言うなら、禅のぼんさんがするような事が、実を言うたら好きなんです、私は。ね。けれども、このように沢山のお下がりを頂いておりますから、どうしても、食物の上においても、その、お粗末御無礼のところが出てくるです。さあ、子供達の、ほんなら、うどんならうどんを食べよるとを見ると、もう、おつゆは一杯残してある。さあ、勝手のほうへ行くと、あれがお粗末なってるごともあら、これがと、もう、気が気じゃないような。けれども、いちいち言うたんじゃ出来んから、まあ、とにかく、恵まれすぎておるのですから。そういうことになり勝ちなのです。ね。ですから、例えば、私のほうの勝手ども見て、他所の先生方がご覧になったら、もう、びっくりされるだろうと思うです。はー、ま、なんと言う、粗末な、乱雑なことだろうかと思われるだろうと思うです。それもう、他所あたりの教会なんかに行ってごらんなさい。それこそもう、大根葉一本だって、それこそ、洗いゆすぐようにしてから、ちゃんと綺麗にして取って、やっぱり、それを頂いておられます。ここあたりはもう、本当に、余りにも、おかげを頂き過ぎとりますから、けれども、なら、私の精神はそうじゃないという事。ね。もう、それこそ、あの、禅寺でも見るような感じの、それが好きなのですけれども、さあ、私のゆるいところ、言うならば、一力茶屋で遊んでおるような状態のとこだけを見るとです。うちの親先生は大きいとか、うちの親先生は、あー、まあ、贅沢だとかというふうに。だから、他所の先生方は、私に言われるんです。大坪さんは肥えとられるばってん、あれは、贅肉ち言う。あれはもう、ほんな美味しかもんばっかり食べとるけん、あげな風になっとるというふうに言われますけれどもね、ま、しかし、それもありましょうけれどです。実際は、そうじゃないことなんです、内容は。だから、本当言うたら、内も外も、いっちょご覧になって、研究してみてです、私の信心は、上辺だけではない、内容にも入ってもらわなければ、合楽の本当の信心を身に着けることは出来ない。私は、自分で自分のことを言うて、可笑しいですけれども、私は、確かに、梅の花の信心が、なるほど、本質的なものの中にあるんだと。それでいて、例えば、商売なら、商売をさせていただきよりましたから、ね。いわば、派手なところもございますから、おかげを、こういう華やかなおかげを頂いておりますけれども、その華やかな内容に、ほんなら、信心辛抱、場合には、辛抱ば出来んところを、さあ、ここが、辛抱する、ここが辛抱ぞと言われて、泣く泣く辛抱させていただいて、、もう、そういう事がありますよ。御神前に出て、もう信心が出来ませんと言うて、お願いをさせて貰うとね。あの、つりしのぶなんかを頂きよりました。あの、つりしのぶってありましょう。ね。しのぶ。ね。そすとね、神様からね、もう、辛抱が出来んと言われてもです。さあ、ここが辛抱のしどころぞと、神様から頂くとです。また辛抱が出来てきたです。ね。だから、その都度に、なるほど、信心辛抱の徳とはこういうもんだろうかというおかげも頂いてきたです。皆さんの場合、そこの辛抱が、私は、少し欠けておると思うです。華やかなところはなかなか、要らんとこだけはよう似て、良かとこは似らんといったようなものがです。私の子供達の上にも、家族の上にも現れてくるように、ご信者の中にもそれを感ずるです。ね。ですから、本当に、私共の子供達が、お父さんの本当の内容と、ね。そらもう、本当に、いー、夕べでも、遅うまで起きてから、夜、赤々と電気を点けておりますから、私が夜中に起きてから、ずっと消して廻る。というようなです。いわば、本当に私の、例えば、私はもう、使うときにはもう、それこそ、ね。百燭光ば、とんを、二十、一緒に使うたって、ね。良いというのが私のいき方なんですけれども、そこんとこだけを真似しておる。ね。そして、例え、五燭光だって、必要なところには使うちゃならんという事をです。みんなが、やはり、見習おうとしないです、残念。けれども、ここは、まあだ私の信心がです。遠くで打って近くに聞こえておるような、あ、近くで打って遠くに聞こえておるという状態であって、遠くで打って近くに聞こえるというところまで、信心がまだ育っていないからだと、まあ、私の身を責める。私がお詫びをする以外ないと思うとりますけれども、ね。けれども、段々おかげを頂いていくでしょうけれども、まあ、今日の御理解のついでながら、申しますならです。私のそこんところを、一つ皆さんも、真似ていただくなら真似ていただかなきゃいけんという事。ね。例えば、私共が、こうやって、あの、いろんなもの、書き物をしますけれども、あの、くしゃくしゃの、こういう風です。もう、本当に、捨てられるもの、もう、あの、封筒の表でも利用いたします。ガバガバ、もうその、紙、こらあーた、捨てるところじゃからとこう言う。ね。それこそ、甘木の親先生じゃなかばってん。ね。今日は、庭の散り葉で、風呂沸かしたい。金のかからんもので沸かしたいと言うて、まあ、大きな顔しとった修行生に対してです。あ、庭の散り葉やら、小枝やらは、神様の御物やないなと仰ったというようにです。ね。お初穂袋の、あれば切ってから、作ってある、伝票を。そげんとこなんかは、西岡さんなんかは、もう、良い紙をこう切ってから、あー、使いよりなさいますもん。私は、これを持って行かんと私が使わん。もう、どげん思うたっちゃ使われんです。勿体のうして、勿体のうして。ね。それこそ、私は、もう、丁度、これ一年一ヶ月使います、この筆を。一年でやめようと思ったら、まあだ書かれるけんで、まあだ辛抱しておるです。というようなところは、ひとっつも真似をせんでですね。ね。言うならば、さあ、ほんなら、さあ、私が何十万の着物を着せて頂いておるという、そげんところだけを真似をする。ね。これではね、合楽の信心が成り立たないです。ここの合楽の信心は、そこが一遍、踏んまえられての、私は桜の花。梅の花が踏んまえられての桜の花。しかも、それを、柳のように、素直な心で、それを、親先生が仰るから、親先生がなさっておられるからと言うて、そこんところを、素直に、私は、稽古をする気持ちがなからなければ、私は、本当のおかげにはなって来ないと思うです。ね。梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい。そういう、一つの、おかげの理想というものを、目指させていただいてです。ね。行くために、いわば、自分に欠けておるもの。素直さが欠けておるなら、本気でひとつ、馬鹿になって素直になろう。辛抱が欠けておるなら、さあ、そこが辛抱のしどころぞと言われるつもりでです。そこんところを辛抱しぬかせた頂こう、ね。そこに、初めて、桜の花のような華やかはおかげが頂けたときにです。もう、散った時には、次の花が咲いておりましょう。ね。今日は、二十九節を、そういうようなふうな意味で聞いていただきました。ね。桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らんと、ね。桜の花のようなおかげを頂きながら、長う散らぬおかげを頂くためにです、ね。なるほど、私の信心は、まあだ、皆さんからご覧になっても、つかみどころがない。ね。本当に、私の、いわば、本音というものを知るためには、やはり、よっぽど、接近しなさらなければ分かるまい。昨日なんか、私、あちらで、岩田屋で、今日は、例えば、神様に、えー、まあ、顔は立てて下さったと言うても、自分の好きなことで出てきておるのですからね。これは、お粗末御無礼のことがあっちゃならんと、こう思いますよね。そら、自動車なんかでも、おー、まあ、高橋さん、気を遣われて、大きな自動車を、正樹さんの車をかってきて見えておられた。まあ、本当に、勿体ないですけれども、それで、私は、あそこの、んー、岩田屋の七階の、あの、子供達がこう、遊園地が、遊ぶところがありましょう。あそこでね、私は、うどんを頂いた。えー、わざわざ、買うてこにゃんですよ。そしてから、あそこで食べんならん。まあ、五十円ぐらいでしょう。大して美味しいうどんじゃなかった、ね。けれどもね、私が、それこそもう、まあ、言うならば、まあ、見掛けはちょいと良かつのごとしといてから、あそこで、その、ベンチで腰かけてうどんを食べておる風景というのは、ちょっと、面白い風景でしょうけれどもですね。私は、そういう時にはね。あの、そういうところから、出発しなければおられない気が致します。ね。それでもう、今日はもう、これで良いという感じが致します。こちらで贅沢しよるのだから、こちらではひとつ、プラス、マイナスしていかなければ、先が歩かれん。ね。今日はもう、贅沢のしついで、そういう気持ちがここへ結ぶです。片一方では、引き閉めていくという気持ちがあります。ね。ま、その後には、また、あの、ご馳走よばれたんですけれども、ね。えー、そういう、一つの、ちょっとした事でも、心掛けなんですよ。いつも自分というものを、ただ、もう、野放しにしてないという事。いつも、足したら引いとる、引いたら足しとるという事なんです。して、何時も、答えが合うておるか、合うて無いかということを、確かめながら、私は行くいき方なんです。ね。ですから、そういうところも、皆さん、一つあの、身に着けていって頂きたいと思います。どうでも、桜の花のような、華やかなおかげを頂いていただきたいと思います。ね。ためには、その内容として、ね。只今申しますように、梅の花の信心が内容になっておきませんと、ね。実るという事になりません。華やかさはあっても、ね。ゆかしさがない。ね。ですから、やはり、ゆかしいというか、ね。梅の花のような、その、かぐわしい香りを放つほどしのです。信心を頂きたい。ね。それでいて、おかげは、桜の花のようなおかげを頂きたい。それが、私の理想です。今のところは、まだまだ、ね。遠くで打って、ん、近くで打ったのが遠くで聞こえておる状態。言うなら、一力茶屋な、今は、状態のときですから、皆さんが、本当に、私を研究して頂くなら頂かなければ分からない、つかみどころがないでしょうけれども、やはり、おかげを頂いていただくためには、そこまで、一つ分かって、他所の人は知らん。他所の人は、大坪さんは贅沢というかも知れませんけれども、いや、贅沢しよりなさるようだけれども、内容はこうだと、皆さんだけにでも知っていただきたい思いがしますですね。どうぞ。